木原実さんが逝って1周年、木原実さんを偲ぶ会が船橋市内で行なわれた。木原実さんは1967年から1980年まで日本社会党千葉県1区選出の衆議院議員であった。1981年脳内出血で倒れ、その後30年の闘病生活を送り、昨年2月18日93才で他界した。
木原実さんは戦前からの社会活動家で19才の時治安維持法違反で逮捕され、26才の時徴兵され、30才の時ソ満国境で敗戦を迎えている。この体験から形成された思想がが93才まで反戦・平和を貫くバックボーンであった。
木原実さんは政治家、社会主義者であるとともに詩人であった。多くの詩集を出版し、倒れた後も詩を精力的に創作し同人誌「芸術と自由」に投稿している。
木原実さんは千葉県1区が4区と分離した時に市川市から船橋市宮本に居を移し、当時日本社会党船橋総支部の書記をしていた私はそれまで雲の上の人であった木原実さんと直接知り合うことになった。
木原実さんは私の母と同じ年齢、長男の誠さんは私と同年齢で習志野市立習志野高校の事務長。今年3月に退職するという。
写真は木原実さんを人生の先輩と仰ぐ、伊藤茂元運輸大臣のあいさつ。
2011年02月19日
2010年05月27日
廣井鉄也さんが逝去
昨日の視察中に連絡のあった廣井鉄也さんの葬儀に出席。廣井さんは、高根台団地に住み私が最初に選挙に出た時(1987年)以来の支持者で、書道家であった廣井さんには、私が始めて選挙に出た時、手書きで後援会連絡所の看板を書いて頂いた。
山形県鶴岡市の出身で旧社会党元衆議院議員の上野建一さんと同郷で、そんな関係で上野さんから紹介された方だった。
いつもニコニコして大変温厚な方でとても家族思いの方でもあった。いつも奥様と二人で歩いていた。その奥様の顔が見えないので、長男で喪主の孝一さんに尋ねた所、病状が悪く病院に入院中で父が亡くなったことはまだ知らせていないとのことだった。
私にとっても大切な方をまた一人失ってしまった。廣井さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌
いつもニコニコして大変温厚な方でとても家族思いの方でもあった。いつも奥様と二人で歩いていた。その奥様の顔が見えないので、長男で喪主の孝一さんに尋ねた所、病状が悪く病院に入院中で父が亡くなったことはまだ知らせていないとのことだった。
私にとっても大切な方をまた一人失ってしまった。廣井さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌
2010年01月19日
木原実さん(元社会党衆院議員)死去
2009年11月17日
田英夫さんの死を悼む
田英夫さんが13日亡くなったことが報道された。田さんは東大在学中に学徒出陣した元海軍特攻隊員の体験を生かして平和を訴え続けた。田さんがTBSキャスター時代にベトナム戦争報道で米国を批判したことは記憶に残っている。 71年の参議院選挙で社会党から立候補しトップ当選。78年には社民連を結成し社会党を離れるが、93年の細川連立政権に反対し社民連を離党。97年に社民党に復党した。
田さんは、戦争体験から生涯、護憲・平和を貫いた。田さんの最後の言葉は「戦争を忘れてはいけない」と語ったと報道されていた。
午前中、議会運営委員会が開かれ、第4回定例会の議事日程などについて協議した。
午前中、議会運営委員会が開かれ、第4回定例会の議事日程などについて協議した。
2009年07月15日
後藤君子さんが突然の逝去
後藤君子さん(73才)が12日、突然逝去され今日通夜が行なわれた。
後藤君子さんは、船橋競馬場やオートレース場で働き、労働組合の役員を務め、退職後はヘルパーの資格をとり、介護事業所でヘルパーとして働いていた。
泊まり込みの仕事もあり、人のいやがる仕事も率先して行なっていた。趣味も多彩でとてもバイタリティのある方であった。実は、私の母が週2回お世話になっていた。このことはしばらく母に内緒にしておくことにした。
後藤君子さんは、船橋競馬場やオートレース場で働き、労働組合の役員を務め、退職後はヘルパーの資格をとり、介護事業所でヘルパーとして働いていた。
泊まり込みの仕事もあり、人のいやがる仕事も率先して行なっていた。趣味も多彩でとてもバイタリティのある方であった。実は、私の母が週2回お世話になっていた。このことはしばらく母に内緒にしておくことにした。
2009年07月01日
兄の死
私の兄(勝正)71才が6月28日に病気(癌)のため他界し、昨日、今日と葬儀が行なわれた。
兄といっても年が13才も離れ、私が物心がついた頃には兄は東京で父の仕事(大工)を手伝っていた。一緒に遊んだ記憶もなく、兄と言うより親戚の叔父さんといった感じであった。
あまり体が丈夫でなく大工の仕事も10年程前から止めていた。そんなこともあって母は私が引き取ることになった。
兄の世代は、戦争が終わった年が小学校1年生、戦中、戦後父や母とともに苦労した世代だ。
中学校卒業と同時に家を離れ父の仕事を手伝い、母や戦後生まれの私たち(姉、妹)の生活を支えた。
自分より先に逝った兄の死を最も悲しみ、悔やんでいるのは母だ。母はときどき「勝正(兄)には苦労かけた、親らしいことをできなかった」と悔やんでいた。
少し早すぎた兄の死を悼み合掌。
兄といっても年が13才も離れ、私が物心がついた頃には兄は東京で父の仕事(大工)を手伝っていた。一緒に遊んだ記憶もなく、兄と言うより親戚の叔父さんといった感じであった。
あまり体が丈夫でなく大工の仕事も10年程前から止めていた。そんなこともあって母は私が引き取ることになった。
兄の世代は、戦争が終わった年が小学校1年生、戦中、戦後父や母とともに苦労した世代だ。
中学校卒業と同時に家を離れ父の仕事を手伝い、母や戦後生まれの私たち(姉、妹)の生活を支えた。
自分より先に逝った兄の死を最も悲しみ、悔やんでいるのは母だ。母はときどき「勝正(兄)には苦労かけた、親らしいことをできなかった」と悔やんでいた。
少し早すぎた兄の死を悼み合掌。