去る10月24日、91歳で逝去された村松七郎さんを送る会が開かれた。市内で児童画教室を主宰しながら原爆の絵展をはじめ、反戦平和・社会運動に生涯をかけて闘い、生き抜いてきた村松七郎さんを偲んで市内、県内から多くの方々は参列された。
秘書課長時代に親交のあった松戸徹市長からも村松七郎さんを偲ぶメッセージが寄せられた。
村松先生は被爆者が描き残した原爆の絵についてこう述べていた。
「戦争を呪い、人間が殺されていくことへの無言の抵抗を示した絵は、昔から随分あった。ゴヤの『戦争の参加』の数々の絵、ピカソの『ゲルニカ』、また丸木位里・俊夫妻の『原爆の図』など、どれも平和を願い、戦争の愚かさを突き、人間の生命の尊さを示したものであった。これらの絵はみな、絵画としても芸術性の高いものであり、絵画作品として賞賛に値するものがあった。
ところが、被爆者の描いた原爆の絵は、どれもみな拙ない絵ばかりである。芸術性の高いものでもない。まして絵画作品として描いたものではない。被ばくの体験の、ジッと耐えてきた思いの中からしぼり出た、やむにやまれない無言の叫びが絵を描かせたものであった。」
「これまで、原爆の悲惨さについて、いくたの証言はあった。たくさん書かれ、たくさん語られ、多くの写真も示された。だが、この絵を描いた人たちは、いつもいつも「そんなもんじゃない、そんなもんじゃない、」という思いが積もり積もっていたに違いない。だからこんなにも鮮明に、こんなにも見事に体験を表現しえないのであろう。描かれている絵はヘタだからこそ、それは絵としての存在ではなく、より確かに伝える語り部としての証言となっている」
ここに村松先生の思想と平和への思いが明確に語られている。